東京シューレがスタートしたといっても、はじめの1〜2年は、考える会がシューレを支えていたといってもよく、シューレ会員の親ではない親・市民の方々がよく来てボランティアとして電話番、掃除、おやつ、子どものおしゃべりなどをして下さった。なにしろ常勤は奥地ひとりで、会の協力がなかったら続けるのは難しかったであろう。
会ではこの期に、渡辺位・松崎運之助、今は亡き八杉晴美、内田良子、若林実、野本三吉、河合洋氏など、登校拒否について、精力的に講師を招いては、学習を深めている。また、石井小夜子・鈴木利広氏たちを招いて、子どもの人権の立場からも、登校拒否に目を向けていった。日高六郎、俵萌子、堂本暁子氏にも来てもらい、教育の在り方に対して、考えを深めていった。
この期に重要だったのは、「考える会」主催の合宿研究会である。第1回(1985年)は東京、第2回(1986年)東京、第3回(1987年)鎌倉、第4回(1988年)鬼怒川、第5回(1989年)東京と重ねて、そのあと1990年に全国ネットワークが誕生してからは、全国ネットで開催していくことになるが、合宿研には、日常の例会に来られない遠方の方がいつも会場にあふれるほど来られ、ほっとし、元気になって帰られたし、全国の経験が交流・蓄積されていった。もっとも、毎 月の例会でもホテルをとり、飛行機・新幹線で来られた人も多く、会員数はピーク時には1400名になり、名簿・発送管理のコンピューター化を図ることが検討され、中沢清氏にお世話になった。
この時期に特筆すべき事態が持ち上がる。それは、1988年9月朝日新聞トップ記事に「20代30代まで尾を引く登校拒否症」「早期完治しないと無気力症に」という見出しで、故稲村博氏の登校拒否を病気ととらえる研究が報道され、市民団体や医療関係者有志たちで抗議の緊急集会を開いた。300人の会場に800人が詰めかけるほどだった。また、翌1989年には、足立区綾瀬の母子殺し事件で登校拒否の子どもへの冤罪事件が発生、弁護団さんの活躍で解決するが、この件についても緊急集会第2回目を開いた。つごう4回の市民団体による緊急集会を開いているが、考える会は準備から報告集まで担い、具体的な役割は大きかった。
一方、生まれた居場所で子どもたちは、自己否定から脱し、元気に成長してい
き、その自立の姿や活動が、説得力を持ち始める。89年には、自分たちの手によるアンケートを実施、文部省のアンケートに対してとは違うのではないかと子どもとして“NO”を表現した。
このような動きを通して出会っていった人々の数は多く、また、様々な地域で考える会や教育を考えるグループが生まれ、1980年代後半は、あちこちから、新しく誕生した会の通信が届き、「まるで燎原の火のようだね」と会話した記憶
がある。情報と交流量の多い日常に、全国的なネットワークを作ることを考え始めたのが1988年。2年の準備期間をもって、1990年より27団体で発足。3〜4年後に70団体を数えることになる。
この期に、石川憲彦、小沢牧子、山下英三郎、斉藤次郎、その他子ども弁護団やジャーナリストの方々にも来ていただき、さらに認識を深めることができた。
シューレの発展と全国ネットの存在により、考える会は、会員数が漸減し、それまで担っていた活動が、その二者に担われていく方向になるが、しばらくは、その全国ネットのセンター的役割を果たしていくことになった。