この5年間、いや考える会30年の歴史の中で最も大きかった出来事は、渡辺位さんの御逝去である。25周年の集いで講演いただいたあと、わずか3ヶ月後の5月25日のことだった。奥様より「私はどこにも行かない。皆さんのそばにいる、と伝えてほしい」との言葉が伝えられた。会の始まりからずっと力になっていただき、本質的な学びをさせていただいた精神的な支柱を失ったが、学んだ事を生かし合いながら本会も親ゼミも、全国ネットも活動を重ねている。
また、80年代、90年代は、親が不登校運動を支えたともいえるが、しだいに子ども・若者が支えるようになった。不登校新聞社、フリースクール全国ネットワーク、フリースペースやフリースクール、ひきこもり当事者の講演や出版など、体験した人たちの活躍が目立ち始めていく。
その中の一つであるが、2009年8月20回大会を迎えた全国ネット夏の大会と合同の全国子ども交流合宿で「不登校の子どもの権利宣言」が採択された。東京シューレで子どもの権利条約を学んだ子たちが、自分たちの権利を考えたい、と夏休み返上で取り組んだものだが、大変すばらしい宣言で、その後、その「不登校の子どもの権利宣言を広めるネットワーク」の結成もあり、活発に活動が続いている。
また、2010年に東京シューレが25周年を迎えるが、その記念に子ども・若者達で創った映画「不登校なう」も何十回と上映され、不登校理解と居場所の大切さを周知するのに大きな力を発揮した。しかし、そのことは裏返すと、いかに不登校の権利が保障されていないかということでもある。日本社会では、学校が苦しいと感じる子が増え、いじめ・いじめ自殺があとを絶たなかった。
2011年3月11日、東日本大震災に見舞われ、日本はかつてない困難に直面する。不登校関連団体もでき得ることに最大限取り組んだ。今、被災地で不登校が増えているのは大きな課題で、大変しんどい状況がある。これまでのつながりあいの中で、気仙沼の親の会が再開されたり、小さなフリースペースができたり、一関に親の会が誕生したりしたことに寄与できてよかったと思う。
2011年は大津のいじめ自殺事件を機にいじめ自殺が大きく社会問題になった。全国ネットの北海道大会では緊急集会を開き、シューレの子ども達は、自主的に動画発信をし、休んでいいんだよ、道はあるよ、と訴えた。文科大臣に直接6人の子が会見し、訴えることもやった。かなりの数の子が取材に応じ、当事者の意見を社会に伝えることができた。
治される対象、あってはならないとされた登校拒否・不登校は、学校と距離をとることはあり得るんだ、人の学び・育ちは学校だけじゃない、多様である、人は自分らしく、自分に合った成長を保障される社会のしくみこそ必要だということが不登校運動の積み重ねからはっきり見えてきた四半世紀であったともいえる。30年前と今で、不登校への否定視、本人の自己肯定感の低さ、学校へ行かねばならないのに行けないという葛藤は変わらない苦しさを与え続けているのだから。
2009年に日本フリースクール大会が採択した「フリースクールからの政策提言」の中に、多様な学びを認め、公的支援も出るように新法を求める提言があり、議連(フリースクール環境整備推進議員連盟)の「骨子を」との話から新法研究会が持たれ、骨子案ができ、2012年にはシュタイナー教育その他、学校教育法一条校以外の、学ぶ権利を保障されているといえない中で子どもの場を自前で支えている人達と「多様な学び保障法を実現する会」を結成して活動している。これが実現すれば「不」ではなく、家庭でやっていくことも含めた成長の選択ということになり、苦しさはぐっと減るだろう。
しかしながら、親の会の学びあい・支えあいはまだまだ必要であり、多くの皆さんとつながりながら会活動を続けていきたいものである。
2014年02月25日
〈6〉25周年(2009年2月)より30周年まで
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〈5〉2000年代
市民側のそういった活動の盛り上がりに冷や水をかけるかのように、文科省は、不登校増加に歯止めがかからないことを憂慮し、2002年、第2回調査研究協力者会議を開催した。「不登校容認の風潮が増加の原因」などととらえているとの報道があった。市民側は、緊急集会を開いたり、連絡会議を持ち、文部省と会見したり、パブリックコメントを出したりと動き、考える会も積極的に協力した。しかし、「学校復帰に何らかの働きかけを」という最終報告が出され、登校圧力が増した。県や学校により、不登校半減政策とか、不登校ゼロ作戦とか、3日休むと風邪でも不登校予備軍としてリストアップされ、対策が講じられるなど休みづらくなった。同伴登校や保健室登校、家庭訪問が奨励された。PTAや民生委員が登校への働きかけに動き地域で居づらくなった話も、親の会では聞かれた。卒業条件が厳しくなった傾向も感じられた。02,03,04,05年の小中不登校数は微減や横バイになり、それまでの増加の一途から転じた感があった。登校圧力が効を奏したかのような印象を与えたのであるが、無理は続かない。
06年秋、いじめ自殺がぞくぞくと続いた。自殺のかげに、いじめがあっても休めない状況、休んではならないと子ども達が思わされている状況があり、楽になるには死ぬしかなかったのである。いのちの方が大事、それくらいなら、と不登校を認める親も増え、マスコミによる「逃げてもいい」報道もあり、06,07
年の不登校数はまた上りはじめ、昨年8月発表された学校基本調査の不登校数は小中で12万9000人となっている。とりわけ中学生の不登校率は、調査開始以来42年間の中で過去最高となった。
不登校率を押し上げているかげに、学校のストレス化の増大が考えられる。ゼロトレランス政策(例外を認めない厳しい対応)、ゆとり教育の後退、学習時間の増加、全国一斉学力テストの復活と成績競争、そして教育基本法の改正(改悪)
やそれに伴う教員管理(免許法改正)など教育が子ども一人一人を大切にするのでなく、国策として期待される人間像にしむけていく方向に強い力が働いている。しかも大変な少子化であり、子どものまわりは大人だらけ、その上大変な高学歴社会である。自分も高学歴である大人は、子どもにも当然のように期待するだろう。子ども達は、ひところより苦しい子が増えているように感じられる。専門機関の増加、医療産業の進出もあり、医療にかかる子どもが増加している、と親の会やフリースクールでは感じた。登校拒否を考える全国ネットワークの協力を得てシューレ大学を中心に「不登校と医療」の全国アンケートも行ったほどである。意にそわない入院を強引にされるケースも珍しくなかった。発達障害による不登校の増加ということが言われるようになり、多くの親は、不安になったり、学校にすすめられ医療にかかり、診断名をもらったりして、しかし、ではどう考えたらいいか、という課題が会でも出されるようになった。
定例の懇談会では、以上のような状況が時に前面に、時に裏側にからんで出されてくる。ひところ、医療機関、相談機関、スクールカウンセラーやサポート校などに行く人が増え、親の会への参加数が少なくなったこともあったが、ここ2〜3年は、やはり、親の会がいいと人数が増えている。つながりながら、孤立せずやっていくこと、じっくり学びあい、考えあい、子ども自身が本当に存在を承認され、安心して生きていけるようにするために親の会の重要度は増していると感じている日々である。
06年秋、いじめ自殺がぞくぞくと続いた。自殺のかげに、いじめがあっても休めない状況、休んではならないと子ども達が思わされている状況があり、楽になるには死ぬしかなかったのである。いのちの方が大事、それくらいなら、と不登校を認める親も増え、マスコミによる「逃げてもいい」報道もあり、06,07
年の不登校数はまた上りはじめ、昨年8月発表された学校基本調査の不登校数は小中で12万9000人となっている。とりわけ中学生の不登校率は、調査開始以来42年間の中で過去最高となった。
不登校率を押し上げているかげに、学校のストレス化の増大が考えられる。ゼロトレランス政策(例外を認めない厳しい対応)、ゆとり教育の後退、学習時間の増加、全国一斉学力テストの復活と成績競争、そして教育基本法の改正(改悪)
やそれに伴う教員管理(免許法改正)など教育が子ども一人一人を大切にするのでなく、国策として期待される人間像にしむけていく方向に強い力が働いている。しかも大変な少子化であり、子どものまわりは大人だらけ、その上大変な高学歴社会である。自分も高学歴である大人は、子どもにも当然のように期待するだろう。子ども達は、ひところより苦しい子が増えているように感じられる。専門機関の増加、医療産業の進出もあり、医療にかかる子どもが増加している、と親の会やフリースクールでは感じた。登校拒否を考える全国ネットワークの協力を得てシューレ大学を中心に「不登校と医療」の全国アンケートも行ったほどである。意にそわない入院を強引にされるケースも珍しくなかった。発達障害による不登校の増加ということが言われるようになり、多くの親は、不安になったり、学校にすすめられ医療にかかり、診断名をもらったりして、しかし、ではどう考えたらいいか、という課題が会でも出されるようになった。
定例の懇談会では、以上のような状況が時に前面に、時に裏側にからんで出されてくる。ひところ、医療機関、相談機関、スクールカウンセラーやサポート校などに行く人が増え、親の会への参加数が少なくなったこともあったが、ここ2〜3年は、やはり、親の会がいいと人数が増えている。つながりながら、孤立せずやっていくこと、じっくり学びあい、考えあい、子ども自身が本当に存在を承認され、安心して生きていけるようにするために親の会の重要度は増していると感じている日々である。
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〈4〉「誰にでも起こりうる登校拒否」と90年代
全国ネットが誕生した90年代に入って、登校拒否についての状況は、かなり様変わりしてくる。しばりがゆるめられる方向へ行政の施策が向けられ、「学校不適応対策調査研究協力者会議」では、「中間まとめ」で従来の登校拒否観ではなく、「誰にでも起こりうる登校拒否」として、従来の「子どもの性格・親の養育態度」に原因を求める考え方の認識転換をはかる方向が示された。まだ登校拒否を治療・特別訓練の対象と見る人々の流れは強くあるのを表すかのように91年7月、広島で風の子学園事件がおき、コンテナの中で2人の子どもが生命を失った。そのことで、民間施設を今一歩認める側に踏み出そうとした協力者会議は、ガイドラインを検討、92年3月に本報告書が出される。問題だらけであるが、従来より前進した面もあり、シューレや考える会が説得力をもったとの委員の声も聞いた。この認識転換の方向がわかって、シューレの子どもや親で始めた学校外の場への通学定期券獲得運動を、考える会・全国ネットで応援し、2度の署名 運動の後、1993年4月より実現した。これは今に至るまでの不登校の子どもの
制度的権利として唯一実現したものである。
風の子学園一周年の上に納得しがたい戸塚ヨットスクール判決が出て、92年9月に子どもの人権弁護団・全国ネット・市民連絡会主催で「いのちとひきかえの教育とは」を開催するなど人権無視の動きにさまざまな活動を行っている。このときに「登校拒否より不登校を」という世の流れが出てきたことに対し、私たちは言葉の言い換えをどうするか検討した。そして「登校拒否」を使っていくことになった。
90年代半ばから、適応指導教室が増え、登校拒否=社会不適応ではないか、という見方に対し、すでに社会人となったりいろいろな生き方をしている体験者の話を聴く機会が増えている。
東京シューレは、94年大田スペース、95年新宿スペースと居場所が増え、日米フリースクール交流や、ユーラシア大陸横断旅行なども子どもたちの手で実現した。
文部省の92年の認識転換に伴い、その年の秋に「民間施設への出席日数を学校の出席にカウントする(校長裁量)という都道府県への通達が出た。これは、良いようでいて、実は、新しいプレッシャーを強めた。つまり、出席になるなら、東京シューレへ行ってほしい、という親(中には教師もいた)が出てきて、考える会では何度も、それでは居場所にならない、出席に関係なく、自由に来るべきで、それを学校は認めるように学校に理解してもらってほしい、と、何回も話 していくことになる。しかし、家庭にいること、家庭を拠点に育つことを罪悪視しない考え方を、もっと積極的に広める必要を感じ、東京シューレでは、ホームエデュケーションのサポート活動として「ホームシューレ活動」に踏み出す。このことは、登校拒否の新しい、積極的なとらえ返しであり、「学校に行かない」「不登校」という学校を軸にした否定的なとらえ方ではなく、家を拠点にして育つということ自体を選び直して、多様な選択肢の一つと位置付けるものである 。考える会でも、やっと90年代後半から例会や通信で、ホームエデュケーションという考え方を取り上げていった。
不登校の子どもたちの動きは多様で、96年にはログハウスを建て、97年には児童福祉法の改正で「不登校を入所対象にしない」という児童自立支援施設への
附帯決議を引き出す活動をし、「学校だけじゃないんだよ」不登校フェスティバルを1000人規模で行ったりしている。また、シューレが大きくなるにつれ、運動の担い手が考える会からシューレに移り、たとえば1998年の全国ネット夏の合宿研は、大人・子ども1023人の参加があったが、シューレの子ども・親・スタッフが実行委員会の大半を担った。
この期には、対応はソフト化し、相談機関、専門機関が増え、子どもたちの受け皿が大変増えたこともあって親の会に来る方々があちこち回ってこられたり、すぐあちこちに行かされたり、落ち着いての参加者が減ってきた。また、子どもたちは一見理解されたようで、本当には存在を肯定されていないことから、悲鳴が深まっているようにも感じられた。
98年5月には、全国ネットの協力のもと、奥地、多田、山田らはNPO法人「全国不登校新聞社」を立ち上げ、不登校に関するメディアが生まれた。また、2000年には、東京シューレの子どもたちが中心となり、多くの関係者が協力して、世界フリースクール大会を日本で開催することができた。それがきっかけになり、2001年「フリースクール全国ネットワーク」が誕生した。
制度的権利として唯一実現したものである。
風の子学園一周年の上に納得しがたい戸塚ヨットスクール判決が出て、92年9月に子どもの人権弁護団・全国ネット・市民連絡会主催で「いのちとひきかえの教育とは」を開催するなど人権無視の動きにさまざまな活動を行っている。このときに「登校拒否より不登校を」という世の流れが出てきたことに対し、私たちは言葉の言い換えをどうするか検討した。そして「登校拒否」を使っていくことになった。
90年代半ばから、適応指導教室が増え、登校拒否=社会不適応ではないか、という見方に対し、すでに社会人となったりいろいろな生き方をしている体験者の話を聴く機会が増えている。
東京シューレは、94年大田スペース、95年新宿スペースと居場所が増え、日米フリースクール交流や、ユーラシア大陸横断旅行なども子どもたちの手で実現した。
文部省の92年の認識転換に伴い、その年の秋に「民間施設への出席日数を学校の出席にカウントする(校長裁量)という都道府県への通達が出た。これは、良いようでいて、実は、新しいプレッシャーを強めた。つまり、出席になるなら、東京シューレへ行ってほしい、という親(中には教師もいた)が出てきて、考える会では何度も、それでは居場所にならない、出席に関係なく、自由に来るべきで、それを学校は認めるように学校に理解してもらってほしい、と、何回も話 していくことになる。しかし、家庭にいること、家庭を拠点に育つことを罪悪視しない考え方を、もっと積極的に広める必要を感じ、東京シューレでは、ホームエデュケーションのサポート活動として「ホームシューレ活動」に踏み出す。このことは、登校拒否の新しい、積極的なとらえ返しであり、「学校に行かない」「不登校」という学校を軸にした否定的なとらえ方ではなく、家を拠点にして育つということ自体を選び直して、多様な選択肢の一つと位置付けるものである 。考える会でも、やっと90年代後半から例会や通信で、ホームエデュケーションという考え方を取り上げていった。
不登校の子どもたちの動きは多様で、96年にはログハウスを建て、97年には児童福祉法の改正で「不登校を入所対象にしない」という児童自立支援施設への
附帯決議を引き出す活動をし、「学校だけじゃないんだよ」不登校フェスティバルを1000人規模で行ったりしている。また、シューレが大きくなるにつれ、運動の担い手が考える会からシューレに移り、たとえば1998年の全国ネット夏の合宿研は、大人・子ども1023人の参加があったが、シューレの子ども・親・スタッフが実行委員会の大半を担った。
この期には、対応はソフト化し、相談機関、専門機関が増え、子どもたちの受け皿が大変増えたこともあって親の会に来る方々があちこち回ってこられたり、すぐあちこちに行かされたり、落ち着いての参加者が減ってきた。また、子どもたちは一見理解されたようで、本当には存在を肯定されていないことから、悲鳴が深まっているようにも感じられた。
98年5月には、全国ネットの協力のもと、奥地、多田、山田らはNPO法人「全国不登校新聞社」を立ち上げ、不登校に関するメディアが生まれた。また、2000年には、東京シューレの子どもたちが中心となり、多くの関係者が協力して、世界フリースクール大会を日本で開催することができた。それがきっかけになり、2001年「フリースクール全国ネットワーク」が誕生した。
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〈3〉全国ネット誕生
東京シューレがスタートしたといっても、はじめの1〜2年は、考える会がシューレを支えていたといってもよく、シューレ会員の親ではない親・市民の方々がよく来てボランティアとして電話番、掃除、おやつ、子どものおしゃべりなどをして下さった。なにしろ常勤は奥地ひとりで、会の協力がなかったら続けるのは難しかったであろう。
会ではこの期に、渡辺位・松崎運之助、今は亡き八杉晴美、内田良子、若林実、野本三吉、河合洋氏など、登校拒否について、精力的に講師を招いては、学習を深めている。また、石井小夜子・鈴木利広氏たちを招いて、子どもの人権の立場からも、登校拒否に目を向けていった。日高六郎、俵萌子、堂本暁子氏にも来てもらい、教育の在り方に対して、考えを深めていった。
この期に重要だったのは、「考える会」主催の合宿研究会である。第1回(1985年)は東京、第2回(1986年)東京、第3回(1987年)鎌倉、第4回(1988年)鬼怒川、第5回(1989年)東京と重ねて、そのあと1990年に全国ネットワークが誕生してからは、全国ネットで開催していくことになるが、合宿研には、日常の例会に来られない遠方の方がいつも会場にあふれるほど来られ、ほっとし、元気になって帰られたし、全国の経験が交流・蓄積されていった。もっとも、毎 月の例会でもホテルをとり、飛行機・新幹線で来られた人も多く、会員数はピーク時には1400名になり、名簿・発送管理のコンピューター化を図ることが検討され、中沢清氏にお世話になった。
この時期に特筆すべき事態が持ち上がる。それは、1988年9月朝日新聞トップ記事に「20代30代まで尾を引く登校拒否症」「早期完治しないと無気力症に」という見出しで、故稲村博氏の登校拒否を病気ととらえる研究が報道され、市民団体や医療関係者有志たちで抗議の緊急集会を開いた。300人の会場に800人が詰めかけるほどだった。また、翌1989年には、足立区綾瀬の母子殺し事件で登校拒否の子どもへの冤罪事件が発生、弁護団さんの活躍で解決するが、この件についても緊急集会第2回目を開いた。つごう4回の市民団体による緊急集会を開いているが、考える会は準備から報告集まで担い、具体的な役割は大きかった。
一方、生まれた居場所で子どもたちは、自己否定から脱し、元気に成長してい
き、その自立の姿や活動が、説得力を持ち始める。89年には、自分たちの手によるアンケートを実施、文部省のアンケートに対してとは違うのではないかと子どもとして“NO”を表現した。
このような動きを通して出会っていった人々の数は多く、また、様々な地域で考える会や教育を考えるグループが生まれ、1980年代後半は、あちこちから、新しく誕生した会の通信が届き、「まるで燎原の火のようだね」と会話した記憶
がある。情報と交流量の多い日常に、全国的なネットワークを作ることを考え始めたのが1988年。2年の準備期間をもって、1990年より27団体で発足。3〜4年後に70団体を数えることになる。
この期に、石川憲彦、小沢牧子、山下英三郎、斉藤次郎、その他子ども弁護団やジャーナリストの方々にも来ていただき、さらに認識を深めることができた。
シューレの発展と全国ネットの存在により、考える会は、会員数が漸減し、それまで担っていた活動が、その二者に担われていく方向になるが、しばらくは、その全国ネットのセンター的役割を果たしていくことになった。
会ではこの期に、渡辺位・松崎運之助、今は亡き八杉晴美、内田良子、若林実、野本三吉、河合洋氏など、登校拒否について、精力的に講師を招いては、学習を深めている。また、石井小夜子・鈴木利広氏たちを招いて、子どもの人権の立場からも、登校拒否に目を向けていった。日高六郎、俵萌子、堂本暁子氏にも来てもらい、教育の在り方に対して、考えを深めていった。
この期に重要だったのは、「考える会」主催の合宿研究会である。第1回(1985年)は東京、第2回(1986年)東京、第3回(1987年)鎌倉、第4回(1988年)鬼怒川、第5回(1989年)東京と重ねて、そのあと1990年に全国ネットワークが誕生してからは、全国ネットで開催していくことになるが、合宿研には、日常の例会に来られない遠方の方がいつも会場にあふれるほど来られ、ほっとし、元気になって帰られたし、全国の経験が交流・蓄積されていった。もっとも、毎 月の例会でもホテルをとり、飛行機・新幹線で来られた人も多く、会員数はピーク時には1400名になり、名簿・発送管理のコンピューター化を図ることが検討され、中沢清氏にお世話になった。
この時期に特筆すべき事態が持ち上がる。それは、1988年9月朝日新聞トップ記事に「20代30代まで尾を引く登校拒否症」「早期完治しないと無気力症に」という見出しで、故稲村博氏の登校拒否を病気ととらえる研究が報道され、市民団体や医療関係者有志たちで抗議の緊急集会を開いた。300人の会場に800人が詰めかけるほどだった。また、翌1989年には、足立区綾瀬の母子殺し事件で登校拒否の子どもへの冤罪事件が発生、弁護団さんの活躍で解決するが、この件についても緊急集会第2回目を開いた。つごう4回の市民団体による緊急集会を開いているが、考える会は準備から報告集まで担い、具体的な役割は大きかった。
一方、生まれた居場所で子どもたちは、自己否定から脱し、元気に成長してい
き、その自立の姿や活動が、説得力を持ち始める。89年には、自分たちの手によるアンケートを実施、文部省のアンケートに対してとは違うのではないかと子どもとして“NO”を表現した。
このような動きを通して出会っていった人々の数は多く、また、様々な地域で考える会や教育を考えるグループが生まれ、1980年代後半は、あちこちから、新しく誕生した会の通信が届き、「まるで燎原の火のようだね」と会話した記憶
がある。情報と交流量の多い日常に、全国的なネットワークを作ることを考え始めたのが1988年。2年の準備期間をもって、1990年より27団体で発足。3〜4年後に70団体を数えることになる。
この期に、石川憲彦、小沢牧子、山下英三郎、斉藤次郎、その他子ども弁護団やジャーナリストの方々にも来ていただき、さらに認識を深めることができた。
シューレの発展と全国ネットの存在により、考える会は、会員数が漸減し、それまで担っていた活動が、その二者に担われていく方向になるが、しばらくは、その全国ネットのセンター的役割を果たしていくことになった。
posted by 考える会 at 14:27| 考える会の歴史
〈2〉学校外の居場所づくり
親が変わることで、子どもが安心して生活できるようになり、元気を回復した子たちが例会にやってくるようになった。例会は月1回しかなく、学校は行きたくないが、毎日あいていて、行きたいとき行けるところがあるといい、とその子たちが言い出した。例会の中でも、片方で、涙・涙で苦しい話が出ると共に、「う
ちでは、おだやかに夏休みみたいに暮らしているのですが、子どもが『友だちがほしい』と言っている。かと言って学校は行けない。どうしたらいいか」また、親からも「家の中でやることをやり尽くして『どっか出かけたい』と言っている」「勉強したくなったけど、学校も学習塾もいやだ、というのをどうしたらよいか」などと話が出された。まずは行くところを探したが、病院と矯正施設しかなく、無いのが幸いしたのかもしれないが、自分たちで学校外の場を創ろう、ということを考えるようになった。こうして、「考える会」の流れから居場所の必要性が持ち上がり、教師をやっていた奥地は、競争と管理の強まる学校教育ではなく、子どもがのびのびと安心して過ごせる、子どもたちで創るような場を実際的に創り出しそのことによって学校を相対化したい、との思いを持っていて、1985年3月に退職し、会のみなさんの協力を得て、居場所を創ることに踏み出す。これが東京シューレである。
2月に『子どもとゆく』の藤田悟さんの紹介もあり、東十条駅そばの雑居ビルの一室を借りた。はじめOKハウスと名を付けたため、住宅会社と間違っての訪問客もあった。4ヶ月は、会で知り合った子たちがやって来て、無料で子どもサロンを続けていたが、6月24日に東京シューレをオープンさせた。
それまで、自宅で会の事務・連絡をやっていたのが、その後は、東京シューレに事務局を移すことになり、楽になった反面、前にも増して、相談・来訪・手紙の量が増し、常にいるスタッフは奥地一人で、あと全員ローテーションを組んでの母親や学生さんのボランティアの中で、対応しきれない日々が続いていくのだが、この東京シューレを生み出したことが、後の登校拒否運動には大きな影響を与えて行くことになったと思う。
ちでは、おだやかに夏休みみたいに暮らしているのですが、子どもが『友だちがほしい』と言っている。かと言って学校は行けない。どうしたらいいか」また、親からも「家の中でやることをやり尽くして『どっか出かけたい』と言っている」「勉強したくなったけど、学校も学習塾もいやだ、というのをどうしたらよいか」などと話が出された。まずは行くところを探したが、病院と矯正施設しかなく、無いのが幸いしたのかもしれないが、自分たちで学校外の場を創ろう、ということを考えるようになった。こうして、「考える会」の流れから居場所の必要性が持ち上がり、教師をやっていた奥地は、競争と管理の強まる学校教育ではなく、子どもがのびのびと安心して過ごせる、子どもたちで創るような場を実際的に創り出しそのことによって学校を相対化したい、との思いを持っていて、1985年3月に退職し、会のみなさんの協力を得て、居場所を創ることに踏み出す。これが東京シューレである。
2月に『子どもとゆく』の藤田悟さんの紹介もあり、東十条駅そばの雑居ビルの一室を借りた。はじめOKハウスと名を付けたため、住宅会社と間違っての訪問客もあった。4ヶ月は、会で知り合った子たちがやって来て、無料で子どもサロンを続けていたが、6月24日に東京シューレをオープンさせた。
それまで、自宅で会の事務・連絡をやっていたのが、その後は、東京シューレに事務局を移すことになり、楽になった反面、前にも増して、相談・来訪・手紙の量が増し、常にいるスタッフは奥地一人で、あと全員ローテーションを組んでの母親や学生さんのボランティアの中で、対応しきれない日々が続いていくのだが、この東京シューレを生み出したことが、後の登校拒否運動には大きな影響を与えて行くことになったと思う。
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〈1〉発足そして1・2年目
「登校拒否を考える会」の発足には、重要な前史がある。それは、会を呼びかけた奥地が参加していた「希望会」という病院内の親の会が10周年を迎え、「登校拒否・学校に行かないで生きる」の本を刊行した、ということが関係している。希望会は、渡辺位氏のアドバイスを受けながら、登校拒否の親たちの手で自主運営されている国立国府台病院内の自助グループである。「登校拒否・学校に行かないで生きる」は、日本の登校拒否の歴史上、「道を分けた本」として親たちの間で知られる画期的な本である。それまで、治療や訓練の対象であった登校拒否を、否定視せず子どもの在り様を受け止める親たちの手で編纂した最初の本であった。出版されるや否や、ものすごい反響で、自分を希望会に入れてほしい、という要請が相次いだ。しかし希望会は病院内の親の会であり、病院側は認めなかった。そこで、病院外に、会を創り出すことにした。
私たちは有志数人で新しい会について1983年暮れに相談し、親・夜間中の先生・「わかる子を増やす会」の学習塾の先生など8名で1984年1月準備会をもった。
障害児教育に関わる親・教師の方々で展開している市民活動に励まされたことも付け加えておきたい。自分たちの問題を自分たちの力で、学び合い、必要な具
体的な支え合いを行い、行政や世の中の差別を取り除こうとしているその動きに、私も加わりながら私たちも始めなければならないと思った。
2月に、市川で、希望会の親・夜間中の松崎運之助さんらと、登校拒否について肯定的に受け止める日本初の市民集会をもち、400人もの人が集まった。そこに、日常的な会をつくりませんか、というチラシを配り、3月に例会第1回懇談会を開催しておどろいた。90人もの人が来て、自己紹介だけでも大変だった。そこで、次からは、月例会の内容を毎回事務局で検討・準備、実に魅力ある1回
1回だったと思う。4月:元登校拒否の夜間中学の生徒さんのバンド演奏、5月: 登校拒否の子どもによる創作劇、6月:子どもと大人の対話集会、7月:文部省の手引き書を読む、9月:体験者で社会人になった人の話、10月:さよなら学校信仰の大集会、11月:内田良子講演、12月:親の体験談を語る、という調子である。主たるテーマのあとは懇談だが、毎回時間が足りなくて、終了後、飲み会で話し込んだ。飲み会が、50人も60人もなったりして、すごい熱気だった。はじめて来た人が、登校拒否の親の会なんてどんなにじとーっと暗いかと思って参加され、たいてい「カラッと明るい」「自然な、肩の凝らない雰囲気」と、予想とは異なることにびっくりされていた。
文部省が1983年に出した、登校拒否の手引き書には「子どもの性格と養育者の態度が問題」とあったが、多数の家庭が集まってみると、当てはまらないのではないか、ということが見えてきた。それにとどまらず大きかったのが、閉じこもり、家庭内暴力、拒食・過食、強迫神経症、幼児返りなど、その状態が、なぜ登校拒否に絡んで出てくるか、そういう状態の子とどうつきあっていったらいいか、なども、親のたくさんの経験の出し合いと、講師との学びから、専門家に振 り回されるのでなく、親として考えることができるようになっていった。
もっとも、問い直されたのは、親の学校信仰であり、子どもの人生は子どものものであり、子どもが登校拒否に直面したとき、この日本社会でいちばんつらいのは子どもであり、親の安心のために登校強制するのでなく、子どもを理解し、受けとめ、家庭を居場所として、その子と共に考えていくということを会では大事にしていった。このころの学校は再登校に躍起であったから、親が教師と同じ立場に立ってしまった場合の子どもの絶望感はすさまじいものがあったが、親が防波堤になることでやっと信頼感が戻ったものだった。
私たちは有志数人で新しい会について1983年暮れに相談し、親・夜間中の先生・「わかる子を増やす会」の学習塾の先生など8名で1984年1月準備会をもった。
障害児教育に関わる親・教師の方々で展開している市民活動に励まされたことも付け加えておきたい。自分たちの問題を自分たちの力で、学び合い、必要な具
体的な支え合いを行い、行政や世の中の差別を取り除こうとしているその動きに、私も加わりながら私たちも始めなければならないと思った。
2月に、市川で、希望会の親・夜間中の松崎運之助さんらと、登校拒否について肯定的に受け止める日本初の市民集会をもち、400人もの人が集まった。そこに、日常的な会をつくりませんか、というチラシを配り、3月に例会第1回懇談会を開催しておどろいた。90人もの人が来て、自己紹介だけでも大変だった。そこで、次からは、月例会の内容を毎回事務局で検討・準備、実に魅力ある1回
1回だったと思う。4月:元登校拒否の夜間中学の生徒さんのバンド演奏、5月: 登校拒否の子どもによる創作劇、6月:子どもと大人の対話集会、7月:文部省の手引き書を読む、9月:体験者で社会人になった人の話、10月:さよなら学校信仰の大集会、11月:内田良子講演、12月:親の体験談を語る、という調子である。主たるテーマのあとは懇談だが、毎回時間が足りなくて、終了後、飲み会で話し込んだ。飲み会が、50人も60人もなったりして、すごい熱気だった。はじめて来た人が、登校拒否の親の会なんてどんなにじとーっと暗いかと思って参加され、たいてい「カラッと明るい」「自然な、肩の凝らない雰囲気」と、予想とは異なることにびっくりされていた。
文部省が1983年に出した、登校拒否の手引き書には「子どもの性格と養育者の態度が問題」とあったが、多数の家庭が集まってみると、当てはまらないのではないか、ということが見えてきた。それにとどまらず大きかったのが、閉じこもり、家庭内暴力、拒食・過食、強迫神経症、幼児返りなど、その状態が、なぜ登校拒否に絡んで出てくるか、そういう状態の子とどうつきあっていったらいいか、なども、親のたくさんの経験の出し合いと、講師との学びから、専門家に振 り回されるのでなく、親として考えることができるようになっていった。
もっとも、問い直されたのは、親の学校信仰であり、子どもの人生は子どものものであり、子どもが登校拒否に直面したとき、この日本社会でいちばんつらいのは子どもであり、親の安心のために登校強制するのでなく、子どもを理解し、受けとめ、家庭を居場所として、その子と共に考えていくということを会では大事にしていった。このころの学校は再登校に躍起であったから、親が教師と同じ立場に立ってしまった場合の子どもの絶望感はすさまじいものがあったが、親が防波堤になることでやっと信頼感が戻ったものだった。
posted by 考える会 at 14:26| 考える会の歴史
まえおき・目次
「登校拒否を考える会」は、2014年1月に満30周年を迎えました。
ここに掲載するものは、2月16日に行いました「30周年の集い」の当日資料に掲載した「登校拒否を考える会の歴史」の文章です。
これまで20周年、25周年と、5年毎の記念の集いの際に当日資料に収録した文章に、25周年から30周年までの分を加筆したものです。
どうぞお読みになってください。
登校拒否を考える会 代表 奥地圭子
〜目次〜
<1> 発足そして1・2年目
<2> 学校外の居場所づくり
<3> 全国ネット誕生
<4> 「誰にでも起こりうる登校拒否」と90年代
<5> 2000年代
<6> 25周年(2009年2月)より30周年まで
■PDFファイル history30.pdf■をダウンロードしてお読みになることもできます。
資料 ■年表(PDFファイル chronicle30.pdf)■
ここに掲載するものは、2月16日に行いました「30周年の集い」の当日資料に掲載した「登校拒否を考える会の歴史」の文章です。
これまで20周年、25周年と、5年毎の記念の集いの際に当日資料に収録した文章に、25周年から30周年までの分を加筆したものです。
どうぞお読みになってください。
登校拒否を考える会 代表 奥地圭子
〜目次〜
<1> 発足そして1・2年目
<2> 学校外の居場所づくり
<3> 全国ネット誕生
<4> 「誰にでも起こりうる登校拒否」と90年代
<5> 2000年代
<6> 25周年(2009年2月)より30周年まで
■PDFファイル history30.pdf■をダウンロードしてお読みになることもできます。
資料 ■年表(PDFファイル chronicle30.pdf)■
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