2014年02月25日

〈6〉25周年(2009年2月)より30周年まで

 この5年間、いや考える会30年の歴史の中で最も大きかった出来事は、渡辺位さんの御逝去である。25周年の集いで講演いただいたあと、わずか3ヶ月後の5月25日のことだった。奥様より「私はどこにも行かない。皆さんのそばにいる、と伝えてほしい」との言葉が伝えられた。会の始まりからずっと力になっていただき、本質的な学びをさせていただいた精神的な支柱を失ったが、学んだ事を生かし合いながら本会も親ゼミも、全国ネットも活動を重ねている。
 また、80年代、90年代は、親が不登校運動を支えたともいえるが、しだいに子ども・若者が支えるようになった。不登校新聞社、フリースクール全国ネットワーク、フリースペースやフリースクール、ひきこもり当事者の講演や出版など、体験した人たちの活躍が目立ち始めていく。
 その中の一つであるが、2009年8月20回大会を迎えた全国ネット夏の大会と合同の全国子ども交流合宿で「不登校の子どもの権利宣言」が採択された。東京シューレで子どもの権利条約を学んだ子たちが、自分たちの権利を考えたい、と夏休み返上で取り組んだものだが、大変すばらしい宣言で、その後、その「不登校の子どもの権利宣言を広めるネットワーク」の結成もあり、活発に活動が続いている。
 また、2010年に東京シューレが25周年を迎えるが、その記念に子ども・若者達で創った映画「不登校なう」も何十回と上映され、不登校理解と居場所の大切さを周知するのに大きな力を発揮した。しかし、そのことは裏返すと、いかに不登校の権利が保障されていないかということでもある。日本社会では、学校が苦しいと感じる子が増え、いじめ・いじめ自殺があとを絶たなかった。
 2011年3月11日、東日本大震災に見舞われ、日本はかつてない困難に直面する。不登校関連団体もでき得ることに最大限取り組んだ。今、被災地で不登校が増えているのは大きな課題で、大変しんどい状況がある。これまでのつながりあいの中で、気仙沼の親の会が再開されたり、小さなフリースペースができたり、一関に親の会が誕生したりしたことに寄与できてよかったと思う。
 2011年は大津のいじめ自殺事件を機にいじめ自殺が大きく社会問題になった。全国ネットの北海道大会では緊急集会を開き、シューレの子ども達は、自主的に動画発信をし、休んでいいんだよ、道はあるよ、と訴えた。文科大臣に直接6人の子が会見し、訴えることもやった。かなりの数の子が取材に応じ、当事者の意見を社会に伝えることができた。
 治される対象、あってはならないとされた登校拒否・不登校は、学校と距離をとることはあり得るんだ、人の学び・育ちは学校だけじゃない、多様である、人は自分らしく、自分に合った成長を保障される社会のしくみこそ必要だということが不登校運動の積み重ねからはっきり見えてきた四半世紀であったともいえる。30年前と今で、不登校への否定視、本人の自己肯定感の低さ、学校へ行かねばならないのに行けないという葛藤は変わらない苦しさを与え続けているのだから。
 2009年に日本フリースクール大会が採択した「フリースクールからの政策提言」の中に、多様な学びを認め、公的支援も出るように新法を求める提言があり、議連(フリースクール環境整備推進議員連盟)の「骨子を」との話から新法研究会が持たれ、骨子案ができ、2012年にはシュタイナー教育その他、学校教育法一条校以外の、学ぶ権利を保障されているといえない中で子どもの場を自前で支えている人達と「多様な学び保障法を実現する会」を結成して活動している。これが実現すれば「不」ではなく、家庭でやっていくことも含めた成長の選択ということになり、苦しさはぐっと減るだろう。
 しかしながら、親の会の学びあい・支えあいはまだまだ必要であり、多くの皆さんとつながりながら会活動を続けていきたいものである。
posted by 考える会 at 14:29| 考える会の歴史