2014年02月25日

〈4〉「誰にでも起こりうる登校拒否」と90年代

 全国ネットが誕生した90年代に入って、登校拒否についての状況は、かなり様変わりしてくる。しばりがゆるめられる方向へ行政の施策が向けられ、「学校不適応対策調査研究協力者会議」では、「中間まとめ」で従来の登校拒否観ではなく、「誰にでも起こりうる登校拒否」として、従来の「子どもの性格・親の養育態度」に原因を求める考え方の認識転換をはかる方向が示された。まだ登校拒否を治療・特別訓練の対象と見る人々の流れは強くあるのを表すかのように91年7月、広島で風の子学園事件がおき、コンテナの中で2人の子どもが生命を失った。そのことで、民間施設を今一歩認める側に踏み出そうとした協力者会議は、ガイドラインを検討、92年3月に本報告書が出される。問題だらけであるが、従来より前進した面もあり、シューレや考える会が説得力をもったとの委員の声も聞いた。この認識転換の方向がわかって、シューレの子どもや親で始めた学校外の場への通学定期券獲得運動を、考える会・全国ネットで応援し、2度の署名 運動の後、1993年4月より実現した。これは今に至るまでの不登校の子どもの
制度的権利として唯一実現したものである。
 風の子学園一周年の上に納得しがたい戸塚ヨットスクール判決が出て、92年9月に子どもの人権弁護団・全国ネット・市民連絡会主催で「いのちとひきかえの教育とは」を開催するなど人権無視の動きにさまざまな活動を行っている。このときに「登校拒否より不登校を」という世の流れが出てきたことに対し、私たちは言葉の言い換えをどうするか検討した。そして「登校拒否」を使っていくことになった。
 90年代半ばから、適応指導教室が増え、登校拒否=社会不適応ではないか、という見方に対し、すでに社会人となったりいろいろな生き方をしている体験者の話を聴く機会が増えている。
 東京シューレは、94年大田スペース、95年新宿スペースと居場所が増え、日米フリースクール交流や、ユーラシア大陸横断旅行なども子どもたちの手で実現した。
 文部省の92年の認識転換に伴い、その年の秋に「民間施設への出席日数を学校の出席にカウントする(校長裁量)という都道府県への通達が出た。これは、良いようでいて、実は、新しいプレッシャーを強めた。つまり、出席になるなら、東京シューレへ行ってほしい、という親(中には教師もいた)が出てきて、考える会では何度も、それでは居場所にならない、出席に関係なく、自由に来るべきで、それを学校は認めるように学校に理解してもらってほしい、と、何回も話 していくことになる。しかし、家庭にいること、家庭を拠点に育つことを罪悪視しない考え方を、もっと積極的に広める必要を感じ、東京シューレでは、ホームエデュケーションのサポート活動として「ホームシューレ活動」に踏み出す。このことは、登校拒否の新しい、積極的なとらえ返しであり、「学校に行かない」「不登校」という学校を軸にした否定的なとらえ方ではなく、家を拠点にして育つということ自体を選び直して、多様な選択肢の一つと位置付けるものである 。考える会でも、やっと90年代後半から例会や通信で、ホームエデュケーションという考え方を取り上げていった。
 不登校の子どもたちの動きは多様で、96年にはログハウスを建て、97年には児童福祉法の改正で「不登校を入所対象にしない」という児童自立支援施設への
附帯決議を引き出す活動をし、「学校だけじゃないんだよ」不登校フェスティバルを1000人規模で行ったりしている。また、シューレが大きくなるにつれ、運動の担い手が考える会からシューレに移り、たとえば1998年の全国ネット夏の合宿研は、大人・子ども1023人の参加があったが、シューレの子ども・親・スタッフが実行委員会の大半を担った。
 この期には、対応はソフト化し、相談機関、専門機関が増え、子どもたちの受け皿が大変増えたこともあって親の会に来る方々があちこち回ってこられたり、すぐあちこちに行かされたり、落ち着いての参加者が減ってきた。また、子どもたちは一見理解されたようで、本当には存在を肯定されていないことから、悲鳴が深まっているようにも感じられた。
 98年5月には、全国ネットの協力のもと、奥地、多田、山田らはNPO法人「全国不登校新聞社」を立ち上げ、不登校に関するメディアが生まれた。また、2000年には、東京シューレの子どもたちが中心となり、多くの関係者が協力して、世界フリースクール大会を日本で開催することができた。それがきっかけになり、2001年「フリースクール全国ネットワーク」が誕生した。
posted by 考える会 at 14:28| 考える会の歴史